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Vol 3. 花倉の乱

天文年間初期当時、甲斐の南東に隣接する相模小田原城には北条氏綱がいた。氏綱は長享元年(1487)に小田原北条氏初代・早雲の長男でとして生まれ、永正十五年(1518)に早雲から家督を譲られて二代当主となった人物であ る。北条氏ではとかく早雲と三代・氏康が名将として採り上げられがちだが、関東進出など北条氏の勢力基盤を拡大・強化したのは氏綱の功績であり、早雲や氏 康に劣らない優秀な大名だったことは間違いない。

もちろん早雲も関東進出の野望は持っていたが、永正七年(1510)七月、扇谷上杉朝良の家臣上田政盛が早雲に内通し、朝良に背いて相模権現山(横浜市神 奈川区)に砦を築いてこもると、早雲は攻め寄せる扇谷・山内両上杉勢と権現山や鴨沢城(神奈川県中井町)で引き続き戦うが、いずれも大敗している。氏綱は 大永四年(1524)正月に武蔵侵攻を開始、扇谷上杉朝興を高輪原で破ると、太田資高を内応させて江戸城も入手するや、翌月には軍を返して甲斐へ侵入、武 田信虎と戦った。武田方の史料「妙法寺記」にはその模様が次のように記されている。(名君の誉れ高き3代目 北条氏康)

大永四甲申 此年正月ヨリ陣立初而二月十一日国中勢一万八千人立テ猿橋御陳ニ而日々ニ御働。奥三方へ御箭軍(矢戦)アリ。此時分乗房ハ八十里御陣寄ト承リ申候。此年万事共有之。小猿橋ト云処ニ而度々ノ合戦アリ。(以下略)

信虎は氏綱を迎撃するため一万八千もの兵を率いて出陣したことがわかり、その後両軍は相模湖の西・小猿橋(神奈川県藤野町)で度々戦っていることが記録に 見える。猿橋の戦いの結果については詳細は不明だが、その後両軍が相模湖畔で戦っているところから見て氏綱は兵を後退させており、信虎が優勢だったものと 考えられる。

この年の十一月に信虎と氏綱は一旦和睦するものの翌年二月には早々と破れ、同六年七月には再び梨ノ木平(静岡県御殿場市)で衝突、この時は信虎が大勝している。

一方、甲斐の南に位置する駿河今川氏では、国内の支配をほぼ完了した今川氏親が勢力拡大を策し、遠江と甲斐方面へ侵略の手を広げつつあった。今川氏では大 永六年四月十四日、分国法「今川仮名目録」が氏親により制定されている。これは三十三ヶ条から成るもので、東国最初の分国法とされているが(西国では周防 大内氏の「大内家壁書」が先に制定)当時氏親は病の床についており、制定二ヶ月後の六月二十三日に没している。これにより家督は十四歳の氏輝が嗣ぐが、母 である寿桂尼の後ろ盾もあり、大きな混乱はなかった。

天文四年(1534)六月、信虎が駿河に出兵すると氏輝は北条氏綱に援軍を要請、八月十九日に万沢口(山梨県南部町)で信虎勢を迎え撃った。氏綱は甲斐郡 内山中(同山中湖村)へと兵を進めると、八月二十二日に信虎の弟・勝沼五郎信友と小山田信有らの信虎勢を撃破、この戦いで信友は戦死した。こうして状況は 俄然今川・北条方が優勢であったが、事もあろうに翌五年三月十七日、氏輝とすぐ下の弟・彦五郎が突然急逝してしまう。おそらく何かの争いがあったのではな いかと思われるが、詳細は不明である。氏輝はまだ二十四歳の若さであった。

氏輝には二人の弟がいた。上の弟は遍照光院の住持である玄広恵探(げんこうえたん)、下は善得寺の喝食(かっしき)・梅岳承芳(ばいがくしょうほう)で、二人とも僧籍に入っていた。本来なら兄の玄広恵探がすんなり家督を嗣ぐはずなのだが、恵探は側室・福島氏の子、承芳は正室・寿桂尼の子という複雑な背景があり、このため家中が割れて内紛が起きた。兄の恵探は当然家督相続を主張するが、氏輝兄弟の父・氏親の正室・寿桂尼は承芳に家督を継がせるべく重臣たちに働きかけた。さらに承芳の補佐役を務めていた太原崇孚(雪斎)の説得により、重臣たちのほとんどが承芳側についたため、恵探は孤立してしまったのである。しかし家督相続に執着する恵探は、母方の福島(くしま)氏の応援を得て花倉城(静岡県藤枝市)・方ノ上城(同焼津市)に籠城、承芳と争う意志を明確に表した。

そこで承芳は、まず岡部親綱に命じて方ノ上城を攻めさせた。猛攻に支えきれなくなった恵探勢は花倉城へ退却するが、親綱は続いて花倉城にも攻めかかった。
結局恵探は城外へ脱出して瀬戸谷(せとのや)に逃げ込むが、追撃の手をゆるめない承芳勢の前に絶望、同地の普門寺に入って六月十四日に自刃した。この一連の家督相続争いが「花倉の乱」である。

信虎は今川・北条氏との戦いに明け暮れていたわけではない。信濃侵攻を目論んでいた信虎は天文四年九月に諏訪氏と和睦すると、翌五年十一月には攻撃の矛 先を佐久郡の海ノ口城へと向けた。これが史実的な信憑性には未だ疑問が残るものの、武田晴信(信玄)の初陣といわれている戦いである。放映ではこの戦いに 勘助が城将・平賀源心とともに海ノ口城に登場しているが、これはもちろんフィクションである。

『甲陽軍鑑』によると晴信はこの年の三月に元服、京都より勅使・転法輪三条公頼が甲斐へ下向し、幼名の勝千代改め大膳大夫晴信となった。同時に勅命により 七月には三条公頼の娘を室に迎え、十一月には初陣を飾っている。
次回は晴信が殿(しんがり)で活躍した初陣の模様を、『甲陽軍鑑』の記述よりご紹介するこ とにしたい。

by Masa

 

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