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Vol 6. 諏訪攻め

父・武田信虎を追放して当主になった晴信は天文十一年(1542)六月二十四日、信濃諏訪へと出陣した。

諏訪の地には信濃国一之宮として知られる諏訪大社があるが、諏訪大社は上社と下社から構成されており、諏訪湖の南 にある上社には本宮(長野県諏訪市)と前宮(同茅野市)が、北にある下社には春宮(同下諏訪町)と秋宮(同)がそれぞれあり、四つの社を総称して諏訪大社と呼ぶ。一般には諏訪大明 神とも呼ばれ、軍(いくさ)と水の神として信仰を集めていた。

諏訪氏は古くから諏訪大社の神官を務めていたが、室町時代に入って信濃守護に任ぜられた小笠原長秀が入部してくると、信濃国人衆と小笠原氏の間で対立が起こり、大塔合戦が勃発した。諏訪氏一族でも反小笠原派・上社諏訪氏と親小笠原派・下社金刺氏の対立が表面化し、長きにわたって内紛状態が続く。

やがて上社諏訪氏では満有(有継)の子・信満・頼満兄弟の代で、信満は嫡流の惣領家を、頼満は祭祀を司る大祝(おおほうり)家をそれぞれ嗣ぎ、祭政が分離された。しかし総領家と大祝家は互いに反目、文明十五年(1483)正月には大祝家の 継満が総領家の政満を上社前宮の神殿においてだまし討ちにする事態が起こった 。継満は政満を討ち取ったものの、神殿を血で穢した行為を一族から咎められ、逆に攻められて高遠へと逃げこむ結果となった。この後、総領家は政満の二男で まだ五歳の宮法師丸(頼満)が大祝に即位するとともに嗣ぎ、ここに大祝家は総領家が併合する形となって滅び、再び祭政を一致させて権威を増した頼満が次第に勢力を拡大していった。

信濃諏訪氏十七代当主となった頼満は、下社の金刺昌春を攻めて甲斐へ追い諏訪郡一帯を掌握、やがて信濃侵略を策す武田信虎と対立する。両者の間には幾度か小競り合いが繰り返されたが、天文四年(1535)に和睦が成立している。

武田氏との和睦から四年が過ぎた天文八年十二月九日、頼満は背中に出来た腫瘍が原因で病没した。享年六十、家督は嫡孫で二十四歳になる頼重が嗣ぐが、これは頼満の嫡子・頼隆が十年前に既に早世していたことによる。これを機に武田氏との関係は一層親密なものとなり、翌年十一月には頼重と武田信虎の三女・禰々姫(晴信の妹)との婚儀が整った。

ただ、頼重には当時既に夫人(小見氏の女)がおり、娘がいた。小笠原長 時の旧臣二木寿斎の著した『寿斎記』によると、この娘が禰々姫の輿入れと引き換えに人質として甲府へと送られている。とすれば諏訪御料人(由布姫)は、父 頼重の自害後に晴信に迎えられ側室になったとして広く知られている『甲陽軍鑑』の説と食い違うことになるが、真相は不明である。

さて、信虎を追放した晴信は諏訪氏に対する政策を一転、侵攻を画策した。諏訪氏内部でも当主となった頼重に対し、伊那郡の高遠頼継や下社の金刺氏、上社禰宜(ねぎ)の矢島満清らが反目しており、時期も良しと判断したのである。高遠氏らは晴信の誘いに乗り、頼重に反旗を翻した。

天文十一年(1542)六月二十四日、晴信は諏訪に向け出陣した。この挙に対応が遅れた頼重は七月一日に矢崎原(長野県茅野市)へ出陣して武田勢を迎え撃 つが、翌日に高遠勢が背後へ侵入してきたため、居城の上原城(同)に火を放って支城の桑原城(同)に立て籠もった。しかし三日早朝から武田・高遠勢が桑原 城に攻め寄せると、奮戦して一旦は撃退したものの逃げ出す城兵も多く、落城は時間の問題となった。そこへ晴信から和睦の申し入れがあり、頼重は高遠頼継を晴信と協力して攻めるという条件でこれを受け入れ、開城した。

ところが晴信は約束を破り、七月五日に頼重を甲府に送ると、板垣信方の菩提寺である東光寺に幽閉した上、二十日に自害を命じたのである。翌日頼重は二十七 歳の若さで弟の頼高とともに自害、ここに諏訪総領家は事実上滅亡した。晴信は頼重の娘(諏訪御料人)を側室とするが、その経緯については先に述べた通り異 説もあって不明である。ただ、間違いないことは、彼女は天文十五年(1546)に晴信との間に一子(後の勝頼)をもうけ、弘治元年(1555)十一月にまだ若くして亡くなっているということである。

これにより諏訪地方は宮川を境に東半分が武田氏、西半分が高遠氏の領有となって二分されたが、元々高遠頼継が武田氏に内通 した際には諏訪郡全域を支配させるという条件であった。このため頼継は武田氏に対して不満を募らせ、九月十日になって矢嶋満清・有賀遠江守・藤沢頼親らと 連合して武田方の上原城を攻略、諏訪両社を占拠するという挙に出た。対する晴信は翌日に先陣として板垣信方を向かわせると、頼重の遺児・寅王を擁して十九日に諏訪郡へ出陣、堺川に着陣した。晴信が寅王を擁したことにより、寅王を諏訪氏の正嫡として認める諏訪旧族は晴信の下に参集し、頼重の叔父満隆らは高島城(同諏訪市)に籠もって高遠勢に対抗する。

九月二十五日、両軍(約四千という)は安国寺前の宮川橋周辺で激突、四時間程の激闘の末に武田方が大勝、弟の蓮芳はじめ七百余の兵を失った頼継は杖突峠を 越えて敗走した。武田勢は駒井高白斎政武がこれを追って上伊那郡へ侵入、藤沢口に放火して藤沢頼親の居城・福与城(同箕輪町)を包囲、二十八日になって頼親を降伏させている。

こうして諏訪郡全域を支配下に置いた晴信は、上原城に板垣信方を城代として置き、城を修築させて諏訪郡の支配を強化していった。高遠頼継はその後も抵抗を続けるが相手が晴信では劣勢は覆うべくもなく、天文十四年四月には本拠の高遠城(同伊那市)を攻められ、城を捨てて逃亡している。

by Masa

 

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