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Vol 4. 晴信初陣、信虎追放

『甲陽軍鑑』によると、天文五年(1536)十一月、武田信虎は晴信らとともに信濃海ノ口城(長野県南佐久郡南牧村)へと兵を進めた。兵数 は軍鑑によると「七、八千には達していない」程度といい(『名将言行録』では八千)、大雪に加えて城内には三千ほどの兵がいたという。そして城内には佐久 城(同佐久市)主の平賀源心法師が加勢として立て籠もって奮戦しており、悪天候で攻めづらいこともあって城はなかなか落ちそうにもなかっ た。そうこうしているうちに一ヶ月余りが経過した十二月二十六日のこと、暮れも迫ったことであり、この大雪では追撃の心配もなかろうということで、信虎は 一旦兵を引き来春再び攻めることにした。その際、晴信が殿軍を仰せつかりたいと申し出たのだが、これを聞いた信虎はせせら笑って初めは許そうとはせず、こ う言って晴信を叱りつけた。

「武田家にとって不名誉なことを申すものじゃ。敵は追撃せぬと戦巧者たちは申しておる。ここは次郎(弟の信繁)に譲ることこそ総領たるものの行動であろう。もし次郎が仮に総領であったなら、決してそのようなことは申すまい」

信虎が信繁を偏愛している一面が垣間見える言葉である。これについて『名将言行録』では以下のように記している。

「信虎、次男、次郎信繁を愛し、晴信を廃せんとするの意あり。家 臣之を察し、皆信繁を敬して、晴信を軽侮す。晴信之を察し、常に虚気(うつけ)たる体にて、馬に乗りては落ちて土を付け、其儘(そのまま)信虎の前に出 て、書を書きては悪く書き、水を泅(泳)ぎては深淵に入りて人に助けられ、居物を斬りては色を失ひて斬り損じ、弟の信繁に何事も皆劣りければ、信虎は申ま でもなく、家臣の者共皆弟に劣りたる虚気者なりと言て笑へり。特に荻原常陸介昌勝之を見て、此人大丈夫の器ありと言て、甘利備前守虎泰、板垣駿河守信形と 密(ひそか)に晴信を補翼せり」

 

しかし晴信は屈せず強引に願い出たため、表向きには結局信虎は渋々これを許すことになるのだが、内心では万一晴 信が殿軍で戦死すれば、誰の反対もなく信繁に家督を相続させられるという計算が働いたのかもしれない。ともあれ翌二十七日早暁、信虎はに軍の先頭に立って 甲斐に引き揚げていった。

晴信は兵三百ばかりを率いて留まり、海ノ口城攻めの軍備を整えた。そして寒空の下、兵たちには酒を振る舞い、二十八日の七ツの刻(午前四時)に海ノ口城に向かったのである。

晴信には運も味方をした。敵指揮官の平賀源心は暮れも迫ったということで側近の部下を二十七日に里に帰しており、城兵の多くも既に在所に戻っていた。源心 自身もまた二十八日の午後から下城するつもりで、当時城内には七、八十人の徒歩武者しかいなかったのである。そんなところへ晴信が攻め寄せたのだからたま らない。城兵たちや城下の村で休息していた侍たちは、晴信のみがわずか三百の兵で攻めているとは夢にも思わず、てっきり信虎の大軍が引き返して攻めてきた と思い込んだため戦意を喪失してしまった。

このため、あっという間に海ノ口城は落ち、晴信は平賀源心を討ち取ることにも成功した。源心は七十人力という剛の者で、四尺三寸の刀を常に差していたと軍鑑は伝えている。

こうして晴信は初陣で殿軍を見事に務めたばかりか、わずか十六歳にして敵将を討ち城を手に入れるという殊勲を上げたのだが、信虎は称賛するどころか「城にそのまま居て戦勝報告と源心の首級を届ける使者もよこさず、その上にせっかく手に入れた城を捨てて帰ってくるとは臆病者じゃ」と言って晴信を非難したという。

そして信虎に同調する内衆たちも十人のうち八人までが、城が落ちたのは城兵たちが新年の準備にそれぞれの在所へ戻っていて空き城同然になっていたのだから当たり前だ、等と言って晴信の戦功を認めなかった。しかし人々は表向きは信虎の意に合わせながらも、心の底では晴信の優れた資質を認めていたのである。

この晴信初陣の五年後の天文十年六月二十四日、信虎は晴信によって甲斐から追放された。家臣たちに大きな混乱がなかったのは、やはり晴信の総領としてのリーダーシップに期待を寄せていたからであろう。『妙法寺記』に以下のように記されている。

「此年六月二十四日ニ武田大夫殿様親ノ信虎ヲ駿河国ヘ押越申候。余リニ悪行ヲ被成ヲ候間、加様被食候。去程ニ地下侍出家男女共喜致満足候事無限」

信虎の追放は地下(じげ)侍(下級の郷士)のみならず、僧や領民に至るまで歓迎されている様子が書き留められて いる。当時四十八歳であった信虎は暫く駿河今川家の庇護を受けていたが、当主の義元が永禄三年の桶狭間合戦で織田信長に討たれると、跡を嗣いだ氏真と折り 合いが悪くなって駿河を去った。その後志摩を経て晴信の正室・三条の方の兄である三条実綱を頼って京都へと移るが、そこで信虎を評した次のような歌が残さ れている。

むこいりをまだせぬ先の舅入り きくていよりはたけた入道

これは『醒睡笑』に見えるものだが、永禄六年(1563)に信虎の娘と京都の菊亭大納言こと今出川晴季の婚約が整った際のこと、信虎はまだ婿入りもしてい ないうちに「先ず婿を見に」と、晴季のもとへ連絡もせず突然に押しかけた様子を詠んだ歌(落首)である。「聞く体(てい)よりは猛けた入道(噂で聞く以上に荒々しい入道様だ)」とうまく菊亭・武田にかけ、信虎の荒々しい性格の一面を伝えている。

信虎は生活にはさほど不自由はしなかったようだが二度と甲斐の土を踏むことなく、天正二年(1574)三月五日に信濃高遠にて八十一歳の生涯を終えた。

by Masa

 

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