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Vol 1. 山内一豊と千代出生に迫る


「画:真壁太陽」

 


山内一豊公生誕地の碑
(愛知県一宮市・法蓮寺)

 

山内一豊、千代誕生

後に土佐一国の主となった山内一豊は天文十五年(1546)、岩倉織田氏の家老・山内但馬守盛豊の二男として尾張羽(葉)栗郡黒田郷(愛知県一宮市)に誕生、幼名を辰之助といった。なお、一豊の誕生年を天文十四年、誕生地を岩倉城(同岩倉市)とする説もある。

  父盛豊は久豊の子で通称を猪之助といい、美濃に生まれた。若い頃より久豊とともに尾張守護代岩倉織田家(敏信・信安・信賢)に仕え 、やがて黒田城を預かる重臣となった人物である。母は松千代といい、尾張春日井郡羽黒城(同犬山市)主・梶原源左衛門の娘と伝わっている。夫盛豊の没後は出家して法秀院(尼)と号した。

一豊の糟糠の妻として知られる千代の出自は不明である。名も 「千代」「まつ」の二説があり、また初め「まつ」を名乗り、一豊との結婚を機に「千代」と改めたともいう。司馬遼太郎氏の「功名が辻」では近江浅井氏の家臣で坂田郡新庄村の郷士・若宮喜助友興の娘としているが、美濃斎藤氏麾下の郡上八幡城(岐阜県郡上市)主・遠藤盛数の娘(遠藤慶隆の妹)とも言われており、現時点では判然としていないが、郡上出自説の方が説得力があるような感を受ける。

当時の情勢は?


弘治三年七月十二日
と刻まれた盛豊の命日

 


父・盛豊(右)と兄・十郎(左)の墓(同)

 

岩倉織田氏は斎藤義龍や織田信行と結び、織田信長とは対立する立場にあった。 弘治三年(1557)七月のこと、黒田城が夜討ちに遭い、この時の戦いで兄十郎が討死し、父盛豊が負傷したとされるが、十郎は城内で暴漢に襲われて落命したともいう。幸いにも辰之助は家臣に守られて無事であった。

ここに信長は尾張をほぼ統一することになるが、辰之助の父盛豊は主家滅亡に際し家老としての責任を取って自害したという。

しかし没年を弘治三年七月十二日、すなわち兄十郎と同日とするものもあり、よくわかっていない。ちなみに盛豊と十郎の墓はともに一宮市の法蓮寺にあるが、命日は七月十二日となっている。(写真上)

墓石に刻まれた法名は盛豊「法性院殿逸溪光秀大居士」、十郎「勝曼院一方乗廣居士」。(写真下)

岩倉城の落城により辰之助は浪人を余儀なくされることになった。母や幼い弟妹を連れ、まずは追手を逃れるため苅安賀(一宮市)の浅井政高を頼った。政高は盛豊の従弟にあたり、親身になって辰之助一家の世話をしてくれたが、数ヶ月後には近江坂田郡宇賀野(滋賀県米原市)の長野業秀のもとに移る。 ここで辰之助は元服、山内伊(猪)右衛門一豊と名乗った。

 

一豊、信長に仕える

一説に永禄三年、十五歳になった一豊は斎藤龍興の家臣で美濃牧村城(岐阜県安八町)主・牧村政倫(まさとも)の紹介で近江勢多城(大津市)主・山岡景隆に謁見が叶い、二百石で召し抱えられたという。余談だが、政倫の養嗣子・兵部大輔利貞(政吉)は茶人として高名で、「利休七哲」の一人として知られている。

当時山岡氏は六角氏の麾下にあり、「江南の旗頭」と称され栗太郡・志賀郡に勢力を伸ばしていた国人で、当初景隆は反信長の立場にあった。この間、同八年五月には室町幕府十三代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀らに暗殺されるなど、京都の政情は混乱していた。 しかし同十一年九月、信長は義輝の弟で越前朝倉氏のもとに身を寄せていた義昭を擁して上洛、協力要請を無視した六角承禎(義賢)父子を観音寺城(滋賀県安土町)に攻め破り、ここに近江の雄六角氏は滅亡、山岡景隆も信長に降伏することになる。

一豊はこの前後に信長の馬廻りとして仕えたようだが、その日時は不明である。信長は稲葉山城を同十年八月に攻め落としており、この説を信じると一豊は稲葉山城攻めには加わっていないことになる。別説では牧村政倫の推挙で信長に仕えたともいい、このあたりの一豊の足跡はよくわかっていない。

by Masa

 

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