【功名が辻コラム】 「功名が辻」を追う!
Vol 2. 大河で活躍!今孔明・竹中半兵衛
竹中半兵衛重治 「画:真壁太陽」
さて、大河ドラマ「功名が辻」でも早い時期から登場し、 後に「今孔明」とも称された竹中半兵衛とはどういう人物なのであろうか。
半兵衛登場。
竹中半兵衛重治は天文十三年(1544)九月十一日、斎藤道三の家臣・遠江守重元の子として生まれた。初め源助、諱は当初重虎と名乗っていたようで、安藤伊賀守守就の娘を妻に迎えている。山内一豊の妻・千代の出自には近江坂田説(若宮友興の娘)と美濃郡上説(遠藤盛数の娘)の二説があるが、「功名が辻」では近江説を採用している。しかし半兵衛の妻の妹は遠藤盛数の子・慶隆に嫁いでおり、もし千代が美濃郡上の出自とすれば半兵衛の妻と千代の兄・慶隆の妻が姉妹ということになる。
半兵衛は永禄三年(1560)に父重元が没したため十七歳で家督を嗣ぐことになり、西美濃菩提山城(岐阜県垂井町)主となって稲葉山城主・斎藤龍興に仕えた。半兵衛は十四、五歳の頃には眼光ただならぬものを持ち、武略は衆を超えていたといい、二十歳の頃には大気の片鱗を見せ始めていたと伝えられる。
戦いに臨んでは名刀虎御前(備前元重)を平常の如く腰に差して静かなる馬に乗り、具足は馬の裏皮を表に用いて粒漆で固め、浅黄の木綿糸で威し立てたものを着用、そこに餅の付いた浅黄の木綿筒服を長々と羽織っていたという。
兜はもちろん「一ノ谷」である。挙動は冷静沈着、例え雷が落ちようとも微動だにしないほどで、軍の進退を自分の任とわきまえ、それ以外の些細なことには無頓着であった。ために半兵衛がいる時は軍全体が何となく安心して進退できたという。
(写真:竹中半兵衛像 竹中陣屋跡)
姉川の合戦 序章
半兵衛が一躍有名になったのは、何と言っても稲葉山城乗っ取り事件である。
斎藤龍興は義龍の子だが父に似ず暗愚で、若い割に普段物静かな半兵衛を侮っていたのか、家臣達までもが半兵衛を馬鹿にした振る舞いが多く、一説には登城した際に龍興の家臣が櫓の上から小便をひっかけるという行為があったともいう。半兵衛はさすがに龍興らの度重なる無礼の仕打ちに怒り、これを懲らしめるべく岳父で斎藤氏重臣の美濃北方城主・安藤守就に相談、一計を案じて行動に移す。
稲葉山城には人質として送っていた弟の久作(重矩)がいた。半兵衛は久作と示し合わせて病と偽らせ、まず屈強の士数名を看病のためと称して城中へ送り込んだ。夕刻、頃合いを見計らった半兵衛は、弟の見舞いという名目で長持ちに武具を隠して雑人にかつがせ、屈強の士十人ばかりを引き連れて稲葉山城へと向かう。門番が長持ちを不審に思って咎めると、これは人々に振る舞うための酒食と説明し、難なく城内に入った。
旧稲葉山城(岐阜城)
断崖絶壁の要害も半兵衛の奇計には敵わなかった
半兵衛ら十数名は城内の一室で武具に身を固め、大広間に詰めていた当日の番将斎藤飛騨守を、「上意」と声を掛けざま抜き打ちに真っ二つに斬り伏せた。 異変に気づいて駆けつけた数人の家士をも悉く斬り捨てると、半兵衛は守就と申し合わせていた合図の鐘を郎党の竹中善左衛門につかせた。山麓には守就らの兵二千が待機していたが、この合図により一斉に城内へとなだれ込んだため龍興はなすすべ無く城から脱出、ここに堅城稲葉山城は半兵衛ら十数人の一時的な「クーデター」によって占領されたのである。
事件を聞いた織田信長は半兵衛に対し、稲葉山城を明け渡すならば美濃半国を与えようとの破格の条件を持ちかけて城を奪おうと働きかけるが半兵衛はこれをきっぱり拒絶、のちに龍興に城を返している。
永禄十年(1567)八月、信長は斎藤龍興を攻めて念願の稲葉山城奪取を果たした。
半兵衛は翌年九月の信長上洛時に近江箕作城攻撃に名が見えることから、この頃までには信長に属したものと考えられる。そうすると元亀元年(1570)六月、栗原山に隠棲していた半兵衛のもとへ木下藤吉郎が足繁く通い、ついに藤吉郎の説得により重い腰を上げたとする有名な話は、残念ながら「三国志」で有名な、劉備玄徳が諸葛亮孔明を迎えた際の「三顧の礼」の話になぞらえて後に創作されたものではないかと思われる。ともあれ半兵衛は信長に従い、木下藤吉郎に付けられた。
朝倉攻めと信長の敗走ルート、織田軍が攻略した金ヶ崎城は
撤退戦時には秀吉が殿(しんがり)を引き受け入城した。
元亀元年四月二十日、信長は越前朝倉氏討伐に向け京都を出陣、一豊もこの戦いに従軍した。早くも二十六日には朝倉景恒の守る金ヶ崎城を攻略するのだが、翌日に全幅の信頼を置いていた浅井長政の離反という青天の霹靂とも言うべき事態が起こる。その際信長の妹で長政の妻・お市の方が、信長に小豆を袋に入れ両端を縛ったものをさりげなく送り、これによって信長は長政の離反が事実であると知ったという話が伝えられている。袋の中に小豆を詰めたのは、一説に天文十七年(1548)三月十九日に起こった、世に言う小豆坂の合戦を暗示させたものともいう。この戦いで信長の父・信秀は三河安祥城に攻め寄せた太源崇孚雪斎を大将とする今川勢と小豆坂(愛知県岡崎市)で戦うが、初め劣勢だったのを巻き返し、あと一歩で勝利というところで今川方の伏兵・岡部長教に横合いを突かれ、退路を塞がれて大敗している。
つまりお市は「小豆坂の二の舞を演じてはなりませぬ。兄上は今、袋の鼠となりつつありますぞ」と言いたかったのかもしれない。信長は敢然と退却を決意、あっという間に京都へ逃げ戻った。 その際、藤吉郎は殿軍を申し出て怒濤の如く攻め寄せる朝倉勢を食い止め、信長の退却を援護する。藤吉郎は大きな損害を出しながらも奮闘、朝倉勢の追撃が中途半端だったことにも助けられ、信長とともに無事京都へ帰り着いた。この働きで藤吉郎の株は大きく上がり、以後出世街道を順調に進んでいくことになる。
by Masa