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Vol 9. 織田家分裂

山崎の戦い〜光秀の最期

織田信長を本能寺に滅ぼして急ぎ基盤を固めていた明智光秀と、備中高松の陣を急遽引き払って信長の弔い合戦に馳せ参じた羽柴秀吉。両者が激突した「山崎の戦い」は、本能寺の変から十一日を経過した天正十年(1582)六月十三日に行われた。

この日は朝から雨が降っていたため戦局は膠着状態となっていたが、変化が起きたのは夕方であった。光秀は本陣を下鳥羽から御坊塚に進めて秀吉を待ち受けていたが、その先鋒右翼を務める松田政近・並河易家ら丹波衆が、前日に天王山を確保して東麓に布陣していた中川清秀隊に攻撃を仕掛け、これがきっかけとなって両軍の戦闘が開始された。

秀吉方の先鋒・黒田孝高と神子田正治が中川隊救援に兵を向け激闘の末に明智勢を押し返すと、秀吉の右翼・池田恒興らも光秀の先鋒・斉藤利三らに攻めかかり、戦闘は全線に拡大した。光秀勢も奮闘するが、明智方で最も頼られていた斉藤利三隊が戦闘開始早々に崩れてしまったのが大きく、勢いに乗って怒濤の如く押し寄せる秀吉勢を食い止めることは出来なかった。こういう戦いになってしまうと兵数の差が大きく物を言う。兵数に劣る光秀は一旦後退、勝竜寺城に籠もって対抗しようとするが、この時光秀の周囲には七百人の兵しか残っていなかった。

 

戦闘で勝利を収めた秀吉は勝竜寺城を包囲した。光秀に残された道は、何としてでも本拠坂本城に戻ることだけである。

夜になって光秀は城を脱出し坂本城へと向かうが、小栗栖(おぐるす)の藪にさしかかった時に落ち武者狩りに出ていた土民の襲撃を受け、竹槍で脇腹を突かれてしまう。光秀は何もなかったように装ってそのまま進むが、里の外れに出たところで落馬、もはやこれまでと従者の溝尾勝兵衛に介錯を頼み、その場で自刃した。

享年五十五歳という。わずか十一日間の「天下人」であった。

残された明智秀満は二日後に坂本城で自刃、城も焼け落ちて明智一族は滅亡した。戦場から脱出していた斉藤利三も十七日に近江堅田で捕らえられ、京都六条河原で斬首された。放送では光秀の最期に一豊が居合わせたことになっているが、これは原作にも見えない。むろん史実ではなく演出である。

 

天下を継ぐ者。清洲会議

光秀を滅ぼして信長の仇を討った秀吉だったが、信長の嫡子・信忠も亡くなったため、当然ながら織田家の跡目を誰が継ぐかという問題が浮上する。

 

そこで山崎合戦から二週間が経過した二十七日、清洲城において織田家相続会議、世に言う「清洲会議」が開かれ、秀吉はもちろん柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興らの重臣が集まり、信長後継者の決定と遺領配分が行われた。結果としては秀吉が主導権を握り、信忠の子・三法師(後の秀信)を後継者と定めるが、奈良興福寺の学僧・多聞院英俊の記した当時の日記に、伝聞ながらその様子が見えるのでご紹介したい。

「一 天下ノ様、御本所ト三七ト所論故、両人名代ヲ止テ、御本所ハ伊勢トヲワリ、三七ハ濃州ノカリ上野殿ヘ伊賀一圓[ウソ]、柴田ハ長浜一圓廿万石云々、ホリ久太郎ハ城介殿ノ若子ノ御モリ、依之江州ノ中郡廿万石所、丹羽五郎左衛門ハ 高嶋郡・志賀郡、池田紀伊守ヘハ十七所・大坂取之、筑前ヘハ山城一圓・丹波一圓コレハチクセンカ弟ノ小七郎ヘ・西ノ岡勝龍寺以下河内ニテ東ノ山ノ子キ以上取之、大旨ハシハカマヽノ様也、則下京六条ヲ城ニ拵云々、名代ナシニシテ、五 人シテ異見申モリタツヘシト云々、筒井ハ和州一圓、宇智郡・宇陀郡モ[ウソ]被付云々、筑州一圓入魂云々、爰元先以可静謐歟、尤〃」(天正十年七月七日条)

記録中の「御本所」とは織田信雄、「三七」は信孝、「上野殿」は信包、「城介殿」は信忠、「城介殿ノ若子」は三法師のことで、また「池田紀伊守」は恒興、「小七郎」は秀吉の弟・小一郎(秀長)の誤りである。注目すべきは「大旨ハシハカマヽノ様也(大体は羽柴の意のままのようだ)」と記されている点で、秀吉が会議の主導権を握って進められたことがわかる。

やはり真っ先に軍を返して光秀を滅ぼした功績は大きく、これにより実質的に秀吉が織田家筆頭の地位に就くと同時に、従来仲が悪かった柴田勝家との確執はますます大きくなっていった。しかし勝家にとってわずかながら溜飲を下げることもあった。信長の妹・お市の方を妻に迎えたのである。お市の方は絶世の美女として知られ、秀吉の憧れの的であったとも伝えられている。放送ではお市の方は秀吉を嫌い抜いていたように描かれているが、当たらずと言えども遠からず、といったところかもしれない。お市の方は前夫・浅井長政との間に出来た茶々・はつ・江与の三人の姫とともに、勝家の居城・越前北ノ庄城へと向かった。

ようやく家督相続が一段落したものの秀吉と勝家の不穏な空気の影響か、まだ信長の正式な葬儀は行われていなかった。そこで秀吉は勝家や勝家に与(くみ) する信長三男・信孝らに信長の葬儀を行う気配がまだ無いと見極めると、密かに準備と根回しをした上で自分が養子としている羽柴秀勝(信長四男)を喪主に立て、十月十五日に京都大徳寺において信長の葬儀を執り行うことにした。これには多分に政治的な思惑がからんでおり、秀吉としては信長に代わる地位に就くのは自分だということを全国に知らしめるべく、葬儀は実に秀吉らしい桁外れなものとなった。

信長の遺体は見つかっていないため、沈香の銘木で彫られた仏像を代わりに棺に納め、前を池田輝政、後ろを羽柴秀勝が担ぎ、秀吉は信長の愛刀・不動国行を捧げて続く。大徳寺から火葬場の蓮台野までの行列は三千人にも及び、秀吉の弟・秀長の指揮する一万の兵が十町(約1km)の道の左右に並び、弓鉄砲や槍・長刀を立て連ねて警護に当たった。この様子は『太閤記』に「中でも十五日の御葬礼の様子は目を驚かすばかりだ」と書かれており、また棺に点火されると「香の煙は雲のごとく霞に似て」とあり、沈香の銘木が焼かれて放つ香りが周辺に漂っていたことが読み取れる。

 

秀吉VS勝家・一益

さて「清洲会議」には参加してはいないが、本来なら呼ばれて当然のはずの人物がいた。  
本能寺の変の際に上野厩橋城にいた滝川一益である。一益は信長に早くから仕えた重臣で、鉄砲の射撃術に秀でていたという。信長による永禄十年(1567) の北伊勢侵攻では大将に抜擢され、後の長島一向一揆討伐後には安濃郡以北の北伊勢五郡を与えられて蟹江城・長島城を本拠としていた。この年の三月、信長は甲斐の武田勝頼を滅ぼすが、一益は信忠付きの副将格として活躍、勝頼を田野に追い詰めて自刃させる戦功を挙げた。この功により一益は上野一国と信濃佐久・小県二郡を与えられ関東管領となった。ここに一益は関八州の警固と東国の取り次ぎ役、また北条氏に対する押さえとして起用されたわけで、織田家中における存在の大きさが窺える。

しかし、信長の横死により一益が関東管領として存在したのは三ヶ月にも満たなかった。北条氏が一転して敵に回り、一益は六月十八日に神流川(かんながわ) で北条氏邦勢を破ったものの翌日に北条氏直勢と戦って大敗、箕輪から小諸〜木曽を経て伊勢長島へ戻ったときには清洲会議は既に終わっていた。会議に間に合わなかった一益は織田家宿老からも外されることになる。

一益は柴田勝家・織田信孝と組んで秀吉と敵対した。対する秀吉は早速対応する。清洲会議の後、長浜城には勝家の甥・勝豊が入っていたが、勝豊は勝家に含むところがあり、その関係は円滑ではなかった。『甫庵太閤記』によると、秀吉は十一月中旬に長浜城を遠巻きに囲み、勝豊の老臣木下半右衛門・大金藤八郎・徳永石見守(寿昌)を呼んで調略を施した。いや、もはや調略というより降伏勧告である。勝豊はこれを承諾、こうして長浜城は苦もなく秀吉の手に落ちる。秀吉がこのタイミングで動いたのには理由があった。雪である。近江北部〜越前にかけては雪深い地域で、秀吉は勝家が降雪により出陣できなくなる時期を待っていたのである。

引き続き秀吉は美濃へ兵を進め、稲葉一鉄らの国人衆から人質を取った上で岐阜城の信孝を攻めた。不意を突かれた信孝は何も出来ず、約定に反して手元に置いていた三法師と母の坂氏を人質として秀吉に差し出し、降伏に等しい和議を結ぶ。これが十二月二十日のことである。残るは滝川一益。その時、秀吉にとってお誂え向きの事件が翌年早々に伊勢亀山城で起こった。

亀山城は関盛信の城であったが、当時家督相続争いによる内紛が生じていた。長男の盛忠は長島一向一揆との戦いで既に戦死しており、二男の一政を推す一派と三男の政盛を推す一派が対立していたが、翌十一年正月に盛信と一政が秀吉に年賀を述べに上洛した際、政盛派の岩間八左衛門らが盛信の留守を狙って滝川一益に通じ、クーデターを起こして亀山城を奪ったのである。一益はこの動きに乗って峰城をも落とし、亀山城には腹心の佐治新介を、峰城には甥の滝川儀大夫を入れて守らせ、秀吉の来襲に備えた。

 

吉兵衛逝く

天正十一年二月十日、秀吉は信長の二男・信雄と連携して一益攻めに出陣、畿内以西より七万五千の兵を調え、三手に分かれて北伊勢へ侵攻した。

 

弟の秀長は二万五千の兵を率いて美濃土岐多羅口から、甥の三好孫七郎(豊臣秀次)は二万の兵を率いて近江君畑越より侵入、秀吉自身は三万の兵を率いて近江安楽越から一益の本拠・長島城へと迫る。

秀吉勢は峰城・長島城・亀山城を包囲して激しく攻撃を加え、山内一豊勢は亀山城攻めにて一番乗りの戦功を挙げるが、それと引き換えに譜代の臣・五藤吉兵衛為清を失うことになる。一豊隊は秀吉本陣の前衛として布陣していたが、敵兵が城外へ駆け出してきたのを認めると、自ら先頭に立って敵に突っ込んで行った。一豊は大いに奮闘、本陣からこの様子を眺めていた秀吉は一豊の快進撃に喜んで躍り上がり、床几から落ちて尻餅をついたと伝えられている。一豊は吉兵衛や小崎三大夫らの奮闘もあって石垣をよじ登り、手傷を負いながらも遂に一番乗りを果たした。放送では戦死した吉兵衛役の武田鉄矢氏が、「功名が辻」を通じての一つのハイライトシーンを見事に演じている。

この他、細川忠興や加藤清正の活躍もあって亀山城は三月三日に降伏開城、城将・佐治新介(益氏)は長島城へと退去した。秀吉は関一政に改めて同城を与え、蒲生氏郷(教秀)の与力としている。峰城は四月十七日に落ちるが、これは亀山城とは違って持久戦の末の落城であった。城将の滝川儀太夫はしぶとく粘って一ヶ月余りを持ちこたえるが、結局秀吉得意の「干殺し」の前に兵糧が尽きて開城した。

最後に残った一益の本拠・長島城は、さすがに簡単には落ちなかった。一益はゲリラ戦を挑んで秀吉勢(中村一氏隊)を局地戦で破るなど激しく抵抗するが、肝心の柴田勝家が賤ヶ岳合戦に敗れて四月二十四日に越前北ノ庄城に滅び、援軍が望めない状況では結局落城は時間の問題であった。一益は七月まで何とか持ちこたえるものの、ついに降伏開城して秀吉の軍門に降っている。

一方、秀吉の一連の動きを座視できなくなった勝家は三万余の兵を率いて越前北ノ庄城を三月三日に出陣、十二日に北近江柳ヶ瀬に到着し本陣を内中尾山に置いた。秀吉・勝家両者はこの後、四月二十一日に北近江賤ヶ岳にて衝突することになる。

by Masa

 

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