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Vol 8. 天下のゆくえ

凄惨!鳥取城籠城戦

秀吉は次なる攻略目標を備中高松城に定め、城将・清水宗治に信長の朱印状を示して味方になれば備前・備中を与えるとの破格の条件をもって誘うが、宗治はこれをきっぱり拒絶する。高松城攻略は長引くと見た秀吉は備中攻めを後回しとし、六月二十五日に姫路を出陣して吉川経家の拠る因幡鳥取城攻めへと向かった。ただし、これは原作では触れられていない。

鳥取城は天文十四年(1545)、因幡守護山名誠通(のりみち)の本拠・天神山城の支城として築かれ、豊国の代となった天正元年に整備されて以来、山名氏の本城として使用されてた。全盛期の山名氏は因幡・伯耆・美作・但馬など十一ヶ国を領し、「六分一殿」と呼ばれるほどの勢力を誇っていたが、豊国の頃にはかろうじて因幡と但馬を保っていた。

豊国は西進する織田勢(羽柴秀吉)と、これを阻止しようとする毛利勢(吉川元春)の間に挟まれ、当初は毛利氏に属すことを決意する。ところが秀吉から脅されると簡単に織田氏に寝返るなど、端から見ても腰が据わらず不安定な有様で、これには家臣たちも迷惑していたことであろう。結局、豊国は重臣の森下道誉と中村春続に城を追い出され、家臣たちが城に籠もって秀吉軍に抵抗するという異常事態となる。森下らは毛利氏に城将派遣を要請、この年の二月に吉川経家がやって来た。

城内の食糧が意外に少ないことに驚いた経家は吉川元春に急報するが、実はこの時点で既に手遅れであった。秀吉は一足先に自領の米商人を使い、城下一帯というより因幡中のと言っても過言でない程の米を高値で買い占めていたのである。このため毛利氏が調達したくても現地の農民や商人の手元に米がなく、毛利領内から運び込む以外に手はなかった。

秀吉は城の東にある本陣山(太閤ヶ原)に腰を据えて二万の大軍で城を厳重に包囲、海上も封鎖して吉川元春が差し向ける食糧輸送船団を撃退した。元春は救援に向かおうとするが、前年に秀吉の加勢を得て毛利方から羽衣石城(鳥取県湯梨浜町)を奪回した南条元続に阻まれ、加えて山陽方面では宇喜多直家が織田方に寝返ったため毛利輝元や小早川隆景も動けず、結局鳥取城は孤立してしまう。

城内では馬や犬猫はもとより小さな虫に到るまで、食べられるものは全て食べ尽くされた。城外へ逃げようとする者が秀吉方に鉄砲で撃たれると、まだ息があるうちにみんなが小刀や鎌を持って集まり、寄ってたかって皮をはぎ肉を食べてしまうという、三木城に勝るとも劣らない地獄絵図が現出していた。

惨状を見るに耐えなくなった経家はついに開城を決意、自らの命と引き替えに城兵の助命を求めた。秀吉は経家の自刃は認めず、森下ら豊国を追い出した家臣たちの切腹を要求するが、経家はあくまで自分が腹を切ると譲らず、結局経家・森下・中村が腹を切ることで話はまとまり、十月二十五日に実行され開城した。

秀吉は生き残った者に大鍋で粥を炊いて与えるが、少しずつ食べよという指示も餓え切った人々の耳には入らず、一気に大量の粥を食べたため胃袋を破裂させて死ぬ者が続出したという。

鳥取城を接収して姫路へ戻った秀吉は十二月十二日、前代未聞の膨大な献上品を携えて安土城の信長へ伺候した。信長は大いに喜び、因幡平定を褒め称えて感状を与えるとともに、褒美として名物の茶道具十二種を与えている。織田家中において、秀吉が最も輝きを放った瞬間であった。

 

高松城水攻め

 

 

翌天正十年三月十五日、一豊は秀吉に従い備中高松城へと向かった。四月四日に宇喜多氏の本拠・岡山城に入ると、侵攻に先立って再度勧降の使者として蜂須賀正勝・黒田官兵衛を派遣して宗治を説得するが、やはり宗治は動じなかった。

清水宗治は天文六年(1537)、備中南部の国人・清水宗則の二男として生まれた。通称を長左衛門といい、初め三村氏の被官で高松城主であった石川氏に属していた。石川左衛門佐久孝の娘を娶って幸山城主となった宗治は、永禄八年(1565)に久孝が没すと後を嗣いで高松城主となる。しかし鈴木・秋山氏ら備中北部の国人衆は宗治が高松城主となることに反対したため、対抗上宗治は毛利氏に属した。小早川隆景の配下となった宗治は、以後毛利氏に忠実な武将として行動する。

宇喜多氏では前年二月に直家が没しており、わずか九歳の秀家が後を嗣いでいたが、秀吉は直家の弟・忠家や戸川逵安(みちやす)以下の宇喜多軍一万に先導させて出陣、十四日から高松城の支城である冠山・宮路山・加茂の各城を攻略、五月七日には本陣を蛙ヶ鼻に移して高松城を囲んだ。

高松城は三方を深田に囲まれて攻めにくい地形だったが、秀吉は黒田官兵衛の献策により水攻めを採用、城の周囲に長大な堤を築いて足守川の水を引き入れた。これが五月十九日のことである。折しも雨が続くという幸運もあって城は水没、これには勇将宗治もどうしようもなく、城の運命は風前の灯火となる。一方で報せを受けた毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らは高松城救援に向け大軍を率いて出陣、このため秀吉は信長に援軍を求めた。信長は明智光秀を救援に差し向けるが、六月二日の早暁、京都で驚天動地の大事件が起こった。

信長が光秀の謀反により、本能寺に滅んだのである。

 

本能寺の変

信長はこの年の三月に武田勝頼を滅ぼすと、滝川一益に信濃二郡と上野を与えて厩橋城に入れ、関東方面の経略を任せた。そして河尻秀隆には甲斐と信濃一郡を、森長可には信濃四郡を、徳川家康には駿河を与えるなど武田氏の旧領を処分したのち、四月二十一日に安土城へと戻っていた。五月七日、信長は三男の信孝を次なる目標である四国討伐の総大将に任じた。十五日に家康と穴山信君が加封などの御礼言上のため安土城を訪れると、信長は明智光秀にその接待役を命じるが、そこへ秀吉からの急報が届く。

信長は自身の出陣を決め、光秀はじめ細川忠興・池田恒興・高山右近・中川清秀・筒井順慶らに出陣を命じると、その旨を知らせる使者として堀秀政を秀吉のもとに派遣した。命を受けた光秀は直ちに居城の坂本城に戻り、二十六日には亀山(現亀岡)に入り軍勢を整えると六月一日深夜に亀山を出陣、桂川を渡ったところで突如進路を変えて京に入り、信長の宿所である本能寺に攻め掛かった。

信長は五月二十九日に百人前後の供衆を従えて上洛、本能寺に宿を取っていた。

 

当時の本能寺は周囲に堀がめぐらされており、木戸なども設けられていて、ちょっとした城郭のような佇まいだったと伝えられている。ただ、中国方面への出陣を諸将に命じていたこともあって、この時期に限り信長自身の周辺警護が手薄だったのが致命的であった。信長は六月一日、安土から持参した名物茶道具の披露を兼ね、博多の豪商・島井宗室を正客として公家衆を招き茶会を催し、深夜まで歓談したのちに床についた。

その頃、亀山を出陣した光秀は夜中に沓掛に到ると全軍に休息を命じ、密かに天野源右衛門を斥候として偵察に出した。これは万一事が漏れて自軍から本能寺に駆け込もうとする者が出ても、それを未然に遮断する対処である。こうして光秀は用意周到かつ慎重に事を運び、行軍が再開され全軍が桂川を渡った時点で将兵に宣言した。

「敵は本能寺にあり!」

 

光秀は早暁に本能寺を囲むと、一斉に攻め掛かった。辺りはまだ暗く、信長は初め誰か下々の者が喧嘩でもしているんだろうと思っていたが、やがて鬨(とき)の声が上がり鉄砲が撃ち込まれるにいたって、これは誰かが謀反を起こしたのだと気づく。

信長は小姓の森蘭丸から「攻めてきたのは光秀の手勢」と告げられた瞬間、自分の最期を悟った。織田家随一と言っても良い知将・明智光秀が考え抜いた末に攻めかかってきた以上、もはやこの人数ではどうなるものでもない。しかし信長は直ちに自ら槍を手にして防戦指揮を執り、厩や台所でも戦いが繰り広げられた。とは言え怒濤の如く押し寄せる明智勢を食い止める術はなく、信長の近習たちも次第に討ち取られていった。

やがて肘に槍傷を負った信長は、手当をすべく殿舎内に入ると、居合わせた女たちを脱出させた後に内側から鍵を掛け、殿舎に火を放った。その瞬間、信長の脳裏を何が横切ったのだろうか。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢まぼろしのごとくなり。 一度生をうけ滅せぬもののあるべきや」

信長が好んだ『敦盛』の一節は、まさにその場における信長の感慨を代弁しているような趣がある。

 

やがて火が回り、頃は良しと判断した信長は燃え上がる炎の中で自刃、四十九歳の生涯を閉じた。信忠もまた明智勢を防ぎきれず、まだ二十六歳の若さで二条城において自刃した。信長の首こそ取ることは出来なかったが、この時点で光秀の謀反は見事に成功したのである。

 

中国大返し

光秀は織田信長・信忠父子を自刃に追いやると、直ちに高松城の救援に出陣していた毛利家の小早川隆景に宛てて使者を発し、事の経緯を説明した上で秀吉を挟み撃ちにしようと考えた。さらに安土城占拠を策して翌日軍を発して近江に向かうが、瀬田城主・山岡景隆が光秀の誘いに応じず瀬田の唐橋を焼き払ってしまったため、やむなく一旦坂本城に入りった。光秀は急ぎ橋を修復して五日に安土城へ入るが、変報に接した守将の蒲生賢秀は、信長の側室らを伴って自身の本拠・日野城へと避難、嫡子氏郷とともに籠城した。

さて、光秀の発した使者は三日の深夜に備中高松へと到着するのだが、闇夜のため道に迷ったのか、こともあろうに秀吉の陣中に入り込んでしまう。もしこの使者が正しく小早川陣に駆け込んでいれば、後の歴史は少なからず変わったであろう。秀吉は使者を捕らえて問いつめ、信長の死を知った。秀吉にとっても驚天動地の事件だったが、悲しんでいる暇はない。そのうち毛利氏も情報を得ることは間違いなく、ぐずぐずしていると身の破滅が待っているからである。しかし、ここから秀吉の本領が発揮される。

夜中にもかかわらず、秀吉は毛利家の外交僧・安国寺恵瓊を呼ぶと、信長の死を秘しつつ以前から進められていた講和を急ぎ、大幅に譲歩した条件を示すと毛利氏はこれを受け入れた。毛利氏では清水宗治の切腹という条件には難色を示していたが、宗治は自分の命と引き替えに城兵の命を救えるならば武人の本望と、秀吉の要求を受け入れた。 早くも翌日に宗治が小舟の上で切腹して和睦が成立すると、秀吉は「中国大返し」と呼ばれる驚異的な強行軍を敢行して一路京都を目指したのである。

浮き世をば今こそ渡れもののふの 名を高松の苔に残して

宗治享年四十六歳、最後まで義を貫いた武士(もののふ)であった。秀吉は宗治の首実検を済ませて毛利氏と誓紙を交換すると、翌日まで毛利方の様子を窺いつつ待機する一方、早くも織田家中の諸将を味方に付けるべく書状を発した。そして六日、毛利方が異変に気づいていないと確かめるや急に軍令を触れ、陣を引き払って東へと向かった。

「天王山争奪戦」

 

乾坤一擲の勝負に意気込んで臨む秀吉に比べ、光秀は当初の思惑が外れていた。光秀は親交があった丹後宮津城主・細川藤孝と、藤孝の長男で娘の玉(ガラシャ)の夫である忠興は少なくとも味方してくれるだろうと思っていた。

ところが細川父子は光秀の勧誘を拒否、髻(もとどり)を切って信長に弔意を表した上に、忠興は玉を丹後味土野の山里に幽閉したのである。さらに光秀が面倒を見た大和の筒井順慶も返事をせず、郡山城に籠城する事態となった。光秀は九日に上洛して下鳥羽に本陣を構え、十日に洞ヶ峠へ上って郡山城に重臣藤田伝五を差し向け、順慶への説得を続けた。順慶は形だけの応対はしたものの自身は動かず、光秀は十一日になって洞ヶ峠を降りて下鳥羽の陣へ戻り、勝竜寺城を前線拠点として秀吉に対した。

その陣容は、先鋒として斉藤利三・阿閉貞征らの近江衆五千、秀吉勢に向かって右手山側には松田政近・並河易家ら丹波衆二千。光秀本隊(五千)の左右には伊勢貞興ら旧幕府衆兵などの四千を置き、総勢約一万六千というものであった。

光秀は秀吉を少々甘く見ていたのかもしれない。その時既に秀吉は摂津尼崎に到着し、大坂城の織田信孝・丹羽長秀や有岡城の池田恒興らに参陣を求めていたのである。秀吉は十二日に摂津富田まで陣を進めて信孝らを待ちつつ軍議を開き、諸将の部署を定めた。すなわち、京都へ向かって左手山側には羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治らの三千五百、中央の街道筋には高山右近・中川清秀の四千五百と堀秀政、右手淀川沿いには池田恒興の五千に加藤光泰・木村隼人・中村一氏らという布陣である。これに秀吉直属の兵と合流する信孝・丹羽長秀らの七千を予備隊として加え、総勢約四万(兵数には異説あり)という大軍で光秀と対峙した。

この日の午後、早くも両軍の先鋒隊が小競り合いを起こす。両軍の間には標高二百七十メートル程の天王山があるが、ここを押さえると戦場が一望できるため、戦いを優位に進めることが出来る。そして天王山を確保したのは秀吉勢であった。

もちろん光秀も指令は出してはいたのだろうが、秀吉の左翼先鋒・中川清秀が一歩早く行動を起こして先に押さえることに成功する。その際小規模ながら銃撃戦があったが、光秀は兵を引かせたため両軍にさほどの損害は出なかった。今でもスポーツや勝負事一般について、優劣や勝敗を決める重要な局面のことを「天王山」と呼ぶが、この言葉は秀吉が先に天王山を制して翌日の山崎合戦に勝ち、やがて天下人となったことに由来する。
そして六月十三日、両軍は山崎にて激突した。

by Masa

 

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