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Vol 1. 天下に義が轟く!「直江状」

慶長四年(1599)八月十日、五大老の一人・上杉景勝は領国の会津に戻ると、城砦を修築して軍備を整え出した。これはもちろん家康に対するものではなく、秀吉・利家という実力者が没して再び戦国の世に戻らないとも限らない時節に備えたものであった。あわよくば中央の混乱に乗じて旧領越後を回復しようと企てたのかもしれない。

 

翌慶長五年正月、家康は年賀を述べに来た上杉家の家臣藤田信吉を通じて景勝に対して上洛を求める。信吉は戻ってこれを景勝に伝えたところ、景勝は烈火の如く怒り、信吉が家康方に内通したと疑い誅殺しようとした。身の危険を感じた信吉は上杉家を逐電、江戸の秀忠のもとを経て大坂の家康に「景勝謀反の疑いあり」と報じる。家康は他の大老奉行と相談の上で景勝に再度の上洛と陳謝釈明を求めるが景勝はこれを拒否、ここに家康の会津征伐へとなるのである。

征伐の理由としては、一口で言うと豊臣政権における規律違反とのことだが、これはおかしい。そもそも秀吉の遺命に背いて許可無しに婚姻関係を結び、私的に恩賞を与えるといった「規律違反」を初めに、しかも堂々とやってのけたのは家康自身なのである。自分のことを棚に上げて一方的に「謀反」と決めつけられた景勝としては、名門上杉氏のプライドもあり、「はいそうですか」と従えるはずはない。むろん家康はこういうことを見越した上で(対象が景勝であるかどうかは別として)一連の行動を起こしたわけで、そういう意味では景勝はまんまと 家康の術中にはめられたのかもしれない。

その際、景勝の腹心・直江兼続が家康に対し、世に「直江状」と呼ばれる過激な文書を送りつけたという。この書状は後世に作られた偽書とも言われるが、真偽はともかく内容は以下のようなものとされている。

「たった三里しか離れていない京と伏見の間にさえ色々な風説が飛びかうのに、上方とここ会津は非常に遠く、どんな間違った風説が立とうとも何ら不思議ではない。また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を一年もたたずに踏みにじり、諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。景勝には謀反心など全くない。上方では茶の湯など、およそ武士の本分とはかけ離れたことにうつつを抜かしておられるようだが、我が上杉家は田舎武士につき、いつでもお役に立てるよう武具をととのえ人材を揃えることは、これこそ武家の本道と心得ている。道を整え河川を修復するのは領民のため以外に何があろう。一国の領主として当然のことではないか。それとも上杉家が家康公の今後の邪魔になるとでもお考えか?前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。我々は心ない人々の告げ口にいちいち会津から上方へ行って言い訳するほど暇ではない。このような理不尽なことで我らを咎められるおつもりならばそうされよ。いつでもお相手をいたそう」

家康が激怒したのも無理はない。
あるいは家康はこれを好機とみてとったのか、会津征伐は開始された。

by Masa

 

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