【直江風雲録】 智将兼続参る!
Vol 3. 上杉景勝と兼続
さて、長尾喜平次顕景とは後の上杉景勝、兼続の主君である。「長 (たけ) 高く容儀骨がら双(ならび) なく、弁舌明らかに殊更大胆なる人」と評される兼続だが、景勝はそれとは好対照だったようで、「上杉将士書上」には以下のように紹介されている。
「小男にて、月代 (さかやき) をびんぐしなりに差し、面(おもて) 豊にして、両眼勢人を凌ぐなり。生得大剛、一大将軍なり。先年既に敵に喰付き、鉄炮・矢叫・鬨 (とき) の声、天地を響す。諸人片唾を呑んで、手に汗を握るとき、幕の内にて休み居て、高鼾 (たかいびき) かき、何とも存ぜず、臥せられ候様なる大勇なり。素性言葉少き大将にて、一代笑顔を見たる者なし。常に刀・脇差に手を懸けて居らる」
つまり、小男ながら眼光鋭く、生まれながらに優れた大将としての資質を備えていたという。また戦の際には、どれだけ騒然として手に汗握る展開であっても、悠々と陣幕の内でいびきをかいて身を横たえているような肝の太さを持ち合わせていたとのこと。また寡黙で常に刀や脇差しに手をかけていて、その生涯に笑顔を見た者がいないという。
この手の紹介文には多少の誇張はつきものだが、少々武骨に過ぎて近づきにくいタイプであったことが想像される。こういう人物が主君だと、家臣たちは景勝と接するときには常に必要以上の緊張感を持っていたであろう。しかし幼い頃から接していた兼続とはウマが合ったようで、絶大な信頼を置いていたことは間違いない。家臣である兼続はともかく、景勝は兼続の人柄に自分が持ち合わせていない多くの点があることを認め、早い時期から自分の片腕としての活躍を期待していたのかもしれない。
両者は春日山城で謙信から多くを学ぶことになるが、兼続が歴史の表舞台に登場するまでには年齢的にまだ少し間がある。そこで、その間の上杉家の動きを簡単に追ってみる。
上杉家は決して平穏というわけではなかった。武田信玄との戦いはもとより関東にも出陣、また三好氏らに兄で室町幕府十三代将軍の義輝を殺され、都を追い出された形の足利義昭からも頼られ、京都回復の援助を求められるなど気の休まる間のない状況であった。さらに永禄十一年 (1568) 三月には揚北衆(越後北部の国人) の実力者であった本庄繁長が反旗を翻し、越中新川郡の国人で配下に属していた椎名康胤が背くという事態が起こる。これらは武田信玄や本願寺からの誘いに応じたもので、謙信は調略戦にも神経を割かれることになった。兼続が九歳の時のことである。
翌年には越相同盟が結ばれ小田原北条氏との和睦が成立、また苦慮した本庄繁長の反乱も終結した。繁長はこの後は上杉氏の重臣として活躍、後に起こる御館の乱では景勝方に付くことになる。そして元亀元年 (1570) 四月、上杉謙信の養子として北条氏康の子が越後にやってきた。これが謙信の没後に家中を二分して景勝と戦うことになる上杉景虎である。
北条氏では翌元亀二年に氏康が病没して氏政が継ぎ、最大のライバルであった武田信玄も天正元年 (1573) に没して勝頼が家を継いだ。そして天正三年正月、景勝は長尾喜平次顕景を改め、上杉弾正少弼景勝と名乗る。景勝二十歳、兼続十六歳の時のことである。この後上杉家では武田・北条両氏とは一段落したものの、越中・能登方面での戦いを強いられることになる。これらの背後には急速に勢力を拡大した織田信長がいた。
天正四年九月、上杉謙信は越中・能登へ侵攻した。能登国主で七尾城 (石川県七尾市) を本拠とする畠山氏は当主の春王丸がまだ幼く、政務は実質上重臣筆頭の長続連 (ちょう・つぐつら) が握っていた。上杉軍の攻撃に遭った畠山氏は天険の要害七尾城に籠城して抗戦する。さすがの謙信もこの城は一気に攻略というわけにはいかず、翌年になっても戦いは続いた。
ところが七尾城内では疫病が発生して病死する者が相次ぎ、当主の春王丸までもが犠牲になったため、続連は急ぎ織田信長に救援を求めた。信長は直ちに申し出に応諾し柴田勝家を向かわせる。ところが事態は続連の思わぬ方向に進んだ。畠山氏では以前より続連と遊佐続光、温井景隆らの対立があった。籠城戦を続けても勝機無しと見た遊佐らは上杉方に寝返り、続連以下長氏一族は信長のもとへ援軍要請に赴いた三男の連龍を除き皆殺しにされてしまったのである。さすがに難攻不落を誇る七尾城もこれではどうすることも出来ず、ついに落城した。天正五年九月十五日のことである。また春王丸が亡くなった時点で能登畠山氏も滅亡した。
そしてこの年、越後では与板城主の直江大和守景綱が病死 (時期は未詳、「上杉年譜」では四月五日とする) 、跡を婿養子の信綱が継いだ。ちなみに、当時兼続はまだ樋口姓である。直江景綱は謙信の側近で初め与兵衛実綱と名乗り、後に謙信から「景」の一字を拝領して景綱と改名したと伝えられ、謙信政権の初期から主として内政や外交に重きを為していた。先の能登侵攻の際には石動 (いするぎ) 城を守備している。そして信綱が四年後に起こる奇禍により倒れるや、兼続の人生は大きく変化することになる。
by Masa