【直江風雲録】 智将兼続参る!
Vol 10. 長谷堂城の戦い
徳川家康は、まず石田三成らの吏僚と文禄・慶長の役で対立していた加藤・福島ら「武断派」などと呼ばれる諸将に接近、徐々に親密度を増していった。さらに秀吉が禁止していた「無断で縁組みを結ぶこと」を無視し、伊達・福島・蜂須賀氏と縁組みを結ぶ挙に出る。これは豊臣家に対する明らかな違背行為で、家康は当然それを承知の上で行ったわけである。三成らはこれを咎め、「内府違ひの条々」なる弾劾文を発すが、家康は「うっかりしていた」等のらりくらりと言い逃れし、挙げ句の果てには開き直る始末であった。こうして家康と三成らとの対立はますます深まっていった。
家康は次いで前田家・上杉家にも難癖を付けてきた。前田家は従順な態度を取るが、景勝は違った。兼続の名において家康に対する宣戦布告とも言える書状を発し、これが史上名高い「関ヶ原」の引き金となる。このいわゆる「直江状」については初回の稿を今一度ご参照いただくとして、家康は景勝に上洛と謝罪を要求するが景勝は拒否したため、ここに正式に「豊臣家への謀反」を理由とした会津討伐が決定した。対する景勝は出羽・仙道方面の守備を厳重にし、南山城には大国実頼、福島城には本荘繁長、小峰城には芋川正親・平林蔵人、長沼城には島津忠直、梁川城には須田長義、白石城には甘糟景継をそれぞれ配備して迎撃体勢を構築する。
家康は慶長五年 (1600) 六月十八日に伏見城を発つと江戸城にて軍議を開き、最上義光には米沢口から、前田利勝・堀秀治には越後津川口より会津侵入を命じた上で、自身も七月二十一日に江戸を発って会津へと向かった。
この間、景勝は先陣を白河付近に繰り出すと、自身は八千の兵を率いて長沼に出陣、家康を待った。しかし七月二十四日、家康が下野小山に着陣したその日に伏見城将鳥居元忠から西軍の伏見城攻撃の報が届いたため、家康は翌日世に言う「小山評定」を開き、景勝への押さえとして結城秀康を残すと軍を西へ返した。
そして家康率いる東軍は西軍の防御ラインをいとも簡単に撃破、九月十五日の美濃関ヶ原における決戦で石田三成の指揮する西軍を壊滅させたことは広く知られている事実である。ではその頃兼続はどういう行動をしていたのであろうか。
家康と景勝の激突は回避されたが、その隙に最上義光が東軍方の秋田実季らとともに志駄義秀の守る酒田城を攻めようとしていること知った景勝は、兼続に命じて最上領への侵攻を命じた。兼続は九月三日に会津から米沢へ戻ると、九日には自ら二万四千の軍を率いて進発、同時に庄内側からも志駄義秀・下吉忠の三千が最上領へ侵攻した (兵数には異説あり) 。
十三日、兼続は色部修理を先手として最上領畑谷城へ攻めかかり、激戦の末に落城させ城将江口道連は自刃した。さらに援軍に駆けつけた最上勢 (飯田播磨・矢桐相模) をも粉砕、続いて山野辺・長崎・谷内・寒河江・白岩の各城を抜き、義光の本城・山形城以外は残すところ志村光安・鮭延秀綱の拠る長谷堂城のみとなった。
九月十五日、孤立して窮した最上義光は、その頃北ノ目城にいた伊達政宗に使者と嫡子義康を送り援軍を依頼、政宗は叔父の留守 (伊達) 政景を名代として鉄砲隊七百、五百余騎を預けて派遣した。同日、兼続は志村光安らの籠もる長谷堂城を大軍で包囲すると、山形城から最上義光の援軍が来着、大風右衛門という剛の者が城内へ入るべく二百程の兵を率いて兼続の先鋒大将・上泉主水正泰綱 (憲元) 陣に攻めかかってきた。上泉泰綱は剣聖と謳われた剣術新陰流の祖・上泉伊勢守信綱の嫡孫 (弟または二男とする説もあり) で、会津一刀流の祖として知られる剣術の達人である。泰綱は一人も生きては通さじと奮戦するが、わずかに討ち減らされながらも大風は長谷堂城内に入る。これを見た伊達の援将留守政景も陣を進め、先陣は長谷堂城下に迫ってきた。頃は良しと兼続は総攻撃を命じ、自身は高地に登って石火矢を雨の如く城内へ射込ませると、城内の志村光安らも必死に応戦、ここに大激戦が繰り広げられた。
兼続は新手の兵三千を城の裏手へ回して鉄砲を撃ちかけさせるが、城方もまた新手を繰り出し必死に応戦する。乱戦の中、先鋒大将の上泉泰綱は大高七左衛門とともに敵中へ突っ込んでいったが、彼の陣の兵達は怖じ気づいたか後に続こうとする者はいない。そこへこの様子を見るに見かねた前田慶次郎が駆けつけた。
慶次は宇佐美民部らとともに上泉陣へ駆けつけると、すぐ泰綱に続くよう指示するが、兵達は顔を見合わせるだけで誰一人後を追う者はいない。いらだった慶次は、二十騎ばかりを率いて泰綱の救援に馳せ向かった。
慶次は宇佐美らと敵陣に突っ込み、火花を散らして戦った。この日の慶次の出で立ちは、「黒き物具に猩々緋 (しょうじょうひ) の羽織を着、金のいら高の数珠のふさに金の瓢箪付たるを襟にかけ、山伏頭巾にて十文字の鎗を持、黒の馬に金の山伏頭巾かぶらせ唐鞦 (とうしりがい) かけたり」という異装で、もちろん馬は名馬・松風である。
慶次らはすさまじい戦いを繰り広げ、伊達勢三十人余を討ち取った。しかし伊達勢は数に物を言わせて盛り返し、慶次らは苦戦に陥る。そこに兼続からの退陣命令が届いた。泰綱は「承知」と答えたものの、次の瞬間、慶次が引き留める間もなく返答とは裏腹に敵陣へ只一騎で突っ込んでいった。泰綱は手当たり次第に槍を揮い、数十人を突き伏せたという。しかし、遂に力尽きて討死した。
この状況を見て義光勢は勢いを盛り返して押し寄せてきた。慶次は再び取って返して敵を蹴散らすが、そこで戦いは物別れとなり本陣へと引き返した。その姿は壮絶で、鎧には矢が七、八本突き立ち、槍は歪み、刃は使い物にならないほど欠け、人も馬も血で真っ赤に染まっていたという。そして長谷堂城をめぐる戦況は膠着状態となった。
しかし、この日の夕刻には石田三成の指揮する西軍は遠く離れた関ヶ原にて東軍に大敗していたのである。二十九日に会津の景勝のもとに西軍の敗報がもたらされると、景勝は兼続に急報し、兼続はすぐさま城の包囲を解き十月一日から全軍の撤退を開始した。
関ヶ原の報に接した最上義光は俄然勢いを盛り返し、当然の事ながら追撃戦に出た。ここに退く兼続と追う義光の間に、まれに見る大激戦が演じられた。これを世に「長谷堂城の退却戦」と呼ぶ。この戦いの戦死者数は、上杉側の記録では最上方二千百、最上側の記録では自軍六百二十三、上杉方千五百八十というから、多少の誇張を考慮してもまれに見る大激戦であったことは疑いない。
兼続は執拗に食らいついてくる最上勢に手こずり、なかなか思うような退却が出来なかった。彼がいら立っていたところへ慶次が駆けつけ、馬前に立ちはだかった。兼続と代わって殿軍を引き受けた慶次は、鉄砲隊を率いて最上勢をくい止めていた水原親憲と合流、馬を降りた。そして大身の槍を手にすると、「朱槍の勇士」として知られる水野藤兵衛・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門・藤田森右衛門の四人を従え、大槍を振りかざしながら敵陣へ突っ込んでいった。そこへ富上山中腹に布陣した水原鉄砲隊二百が一斉に火を噴き援護射撃をする。
慶次らは縦横無尽に暴れ回った。水原の援護射撃も敵に打撃を与えた。この激戦では敵大将最上義光も兜に銃弾を受け、命は落とさずに済んだものの、篠垂 (兜の一部) が吹き飛ばされるほどであったという。
こうして兼続はなんとか十月四日に米沢へ帰り着くことに成功した。しかし、盟友・石田三成はすでにもうこの世の人ではなかったのである
by Masa