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Vol 2. 坂戸城と若き日の兼続

さて、優れた能力を持った戦国武将たちは、それぞれの御家自慢の人材として様々な形容で讃えられていたことは広く知られており、兼続も例外ではない。一例を挙げると「上野国一本槍」「毛利の両川」「三好三人衆」「徳川四天王」「豊臣家五大老」などといった具合である。

その一つに「三山城(さんやましろ)」という称号がある。これは江戸時代初期に山城守を称した人物のうち、特に能力の優れていた三人を讃えたもの。その三人とは、横山長知(ながちか)=加賀前田家の家老、竹腰(たけのこし)正信=尾張徳川家(義直)の付家老、そして本稿の主人公である上杉家の直江兼続のことである。

そんな彼は永禄三年(1560)、越後上田庄(現南魚沼市)坂戸城主長尾政景の家臣・樋口惣右衛門兼豊の長男として坂戸城下に生まれた。母は信濃の土豪・泉弥七郎重蔵の娘あるいは直江景綱の妹といわれ、弟に与七実頼(後に大国氏を相続)と樋口家を継いだ与八秀兼、ならびに三人の女兄弟がいる。

永禄三年といえば上杉謙信が関東管領上杉憲政らの依頼により、北条氏康攻撃のため初めて関東に出陣した年で、尾張では織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いが行われ、また翌四年には上杉 vs 武田の川中島の戦いが行われるなど、まさに全国的に戦乱の真っ只中であった。

兼続は幼名を与六といい、小さい頃から利発な子であったとされ、長尾政景の後室仙桃院(上杉謙信の姉で景勝の実母)に見込まれ、若くして仙桃院の子・喜平次顕景(天正三年に景勝と改める)の近習として仕えたという。

さて、『常山記談』巻十一の二十一「直江兼続が事」には、彼の人物評が次のように見える。

越後の士(さむらい)大将直江山城守兼続は、朝日将軍義仲の乳子、樋口次郎兼光が末孫なり。謙信に仕へて景勝に至る。景勝、奥州にて百万石を賜りし時、米沢三十万石を直江に与へられ、陪臣の中第一の大禄なり。長(たけ)高く容儀骨がら双(ならび)なく、弁舌明らかに殊更大胆なる人なり。且文芸にも暗からず、五臣注の文選(もんぜん)は此人板行させたるとなり。詩をも作りて、

春雁似吾吾似雁、洛陽城裏背花帰

などといふ句も世に聞えけり。(中略)
   兼続父も山城守といふ。もと僧なりしが、還俗して武勇を事としけり。

「長(たけ)高く容儀骨がら双(ならび)なく、弁舌明らかに殊更大胆なる人」、つまり背が高く容姿は肩を並べる者がいない。また弁舌も明るく、とりわけ大胆な人であるとの評である。

それほど身分の高い家に生まれていなかった彼の人生が動き出したきっかけは、永禄七年(1564)七月五日のことであった。坂戸城主で上田長尾家当主・長尾政景が、上杉謙信の重臣・宇佐美定満と野尻湖で舟遊び中に溺死してしまったのである。与六兼続が五歳の時のことであった。真相は不明だが、舟遊びの最中に酒に酔って遊泳したため溺死した、謙信の指示により定満が政景暗殺を実行した、はたまた定満自身の思惑により殺害した等いくつかの説が伝えられている。

上田長尾家では政景の嫡男・義景が十歳の時に早世していたため、当時十歳になる二男・喜平次顕景(後の景勝)が継ぐことになった。しかし、顕景は謙信の養子となって春日山城に入ることになり、兼続もまた顕景に従って春日山城に赴き、ここで上杉謙信の薫陶を受けることになる。

by Masa

 

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