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Vol 7. 佐渡平定

新潟県には佐渡島 (新潟県佐渡市) という大きな島がある。日本という国は北海道・本州・四国・九州の四つの「島」を中心に成り立っているが、北方四島を除く全国の「県庁所在地が含まれない島」のうちで大きな島といえば、佐渡島・淡路島 (兵庫県) ・対馬[ 対馬島 ] (長崎県) ・奄美大島[ 大島 ] ・種子島・屋久島 (以上鹿児島県) などがまず挙げられよう。

さて、これらのうちで「一番大きな島は?」と聞かれたら、皆さんはどの島の名を挙げるだろうか。実は、正解は佐渡島なのである。

佐渡島の面積は約 855.3 平方キロメートルで、以下順に奄美大島 (712.4) ・対馬 (696.1) ・淡路島 (592.2) ・屋久島 (504.9) ・種子島 (445.0) と続く。つまり、佐渡島は沖縄本島 (1207.7) に続く全国第5位の広さを持つ島で、「県庁所在地が含まれない島」では最大の島である (北方四島を除く) 。

さて、佐渡島は当時独立した国 (佐渡国) で、越後の上杉 (長尾) 氏に従属していたわけではなく、古くから本間一族により支配されていた。本間氏は村上天皇の皇子・為平親王の子孫能久に始まり、能久が承久の乱 (1221) の後に佐渡守護大佛 (おさらぎ) 氏の守護代として佐渡島に入り、雑太 (さわだ) 城を本拠として雑太本間氏となった。以後、一族を島内各所に置き勢力を固めていくが、これがやがて果てしなき抗争を繰り返すことになる羽茂 (はもち) 本間氏・河原田 (かわはらだ) 本間氏・沢根本間氏・久知 (くじ) 本間氏・潟上本間氏・新穂 (にいぼ) 本間氏と呼ばれる郷地頭たちである。

戦国時代になると惣領家の雑太本間氏は勢力を弱め、代わって北佐渡の河原田本間氏と南佐渡の羽茂本間氏が台頭、両氏を核とした島内の内紛が続いていた。御館の乱を制し、上杉謙信の跡を嗣いだ景勝は早速佐渡領有を目論むが、羽茂・河原田両本間氏は景勝に臣従しようとはしなかった。

やがて越後を揺るがした新発田重家の乱も平定された天正十七年 (1589) 五月二十八日、景勝は出雲崎港より三百艘余りの船を仕立てて佐渡平定の先発軍を発するのだが、この佐渡平定戦の際、軍奉行を務めた直江兼続は戦いを避けて降伏するよう各地の本間一族に通達している。その結果沢根城主・本間左馬助の協力を得られたことから六月十二日、景勝自らも千余艘の船を率いて佐渡へ向かい、沢根 (島中央西部) に上陸して程近い河原田城の本間佐渡守高統 (たかつな) を攻めた。激戦が繰り広げられたが結局高統は抗し得ず、城に火を放って自刃したという。

景勝は次いで十六日に最も頑強に抵抗する羽茂城主・本間高茂 (高季・高貞とも) を攻めた。高茂は弟の赤泊城主・高頼や近臣たちとともに城を脱出、船で逃亡を図ったものの越後で捕縛され、佐渡へ送られて国府川 (こうのがわ) 原で処刑された。ここに四百年にわたって佐渡に栄えた羽茂本間氏は滅ぶ。

こうして景勝は約半月という短期間で佐渡全域を平定すると、潟上城主・本間秀高、沢根城主・本間左馬助、雑太城主・本間憲泰、久知城主・本間泰時の所領を没収する代わりに越後国内にて所領を与え、家臣の富永長綱・黒金尚信を羽茂城に置いて交替で在番させた。また代官として主に景勝の直臣である上田衆や兼続の与板衆らから抜擢して島内各地に置き、島内から「本間色」を一掃するとともに支配体制を固めた。

この景勝による佐渡平定の戦いを、本間氏側 (久知本間氏) の立場にて記した唯一の資料として『久知軍記』がある。以下、当該部分を抜粋する。

天正十五年戊子 (つちのえ・ね) の年、景勝公より久知泰時 (本間泰時) 公へ旗下に成るべき由御使御状被遣候。久知殿御合点無く、御使を返し給ふ。其御状、下久知村菊池勘左衛門方に有之候。其後越後より攻め来る由聞給ひ、久知殿、野崎浜の磯きは (際) に二丈計 (ばか) りに土手をつき待ち給ふ。其時の乱杭、砂の底に今も有之候。程なく越後勢、数千艘の船にて、数万の軍兵押寄せ給ふ。久知殿三千騎にて戦ひ給ふ。弓矢鉄砲の音、天地もくつ返すかと夥 (おびただ) し。三日三夜、船よりあけたてず戦ひたり。かゝる所に、久知八幡宮の森の方より、山鳩二羽、久知の陣の上を通り、表を指 (さし) て飛行する。暫 (しばら) く有 (ある) と、西風強く吹き、浪もほうらい (蓬莱) 山と成にける。越後船の錨綱 (いかりづな) を攻切ければ、不叶(かなわず) と沖の方へ吹き戻さる。久知殿八幡宮をふし拝み、城に帰り給ふ。其後沢根川 (河) 原田より乗込み、一国一同に旗下と成、久知殿も是非なく旗下と成、越後には九頭田・かうもと・渡合、三ヶ所の知行にて十三年越後に居住す。慶長五年庚子 (かのえ・ね) の年、越後より浪人まし〃〃、川崎村に住居し給ふ。御屋敷は近年迄御番所有りし所也。寛永九年壬申 (みずのえ・さる) 三月廿六日に御死去。(以下略)

久知城主・本間泰時は景勝に臣従するが、この戦いの二年前に景勝から使者が派遣された際には「久知殿御合点無く、御使を返し給ふ」、つまり使者を追い返していることがわかる。また「久知殿も是非なく旗下と成」、すなわち泰時は景勝に「仕方なく」臣従した様子が記されており、このあたりに越後国主・上杉景勝に対しても佐渡国人領主としてのプライドを捨てきれなかったことが察せられ興味深い。結局泰時は越後に移って十三年住んだが、慶長五年に越後より浪人したとあるので、上杉家の会津移封には従わなかったようである。ちなみに沢根本間氏・潟上本間氏は景勝の家臣となり、後に会津を経て米沢に移っている。

なお、佐渡と言えば金山が有名だが、金脈が発見されたのは関ヶ原合戦後の慶長六年 (1601) のことである。つまり佐渡の金山は上杉氏 (謙信・景勝) の収入源とは無関係だったことを付記しておく。

よく誤解されるが、戦国時代には未発見であり、戦国大名の上杉謙信がかかわった記録はない。小説「武田信玄」において新田次郎は佐渡金山が上杉謙信の財源であったと描写し、「記録が無いのは秘密にしたからである」としているが、戦国時代の佐渡は本間氏の領国であり上杉氏は領有しておらず、その意味からも上杉謙信が佐渡金山を保有していたということはありえない。

by Masa

 

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